Nirvanaやカートについて語るとき、いつもどこかで意見が分かれる。
「彼は反商業主義だった」
「でも成功も望んでいた」
「今の扱われ方は本意じゃないはずだ」
「いや、勝手に思想を代弁するべきではない」
最近ではアニメや流行文化の文脈の中でNirvanaが取り上げられることもあり、そのたびに同じような議論が繰り返されているように感じる。
ただ、この議論には簡単な着地点がない。むしろ、最初から着地しないことを前提にした問いなのかもしれない。
カートはインタビューなどで、いくつかの価値観をはっきりと語っている。
彼はロック産業の構造や、商業主義的な音楽のあり方に対して強い違和感を持っていた。また、マッチョなロック文化や排他的な価値観にも否定的だったことが知られている。
さらにカートは、同性愛者やマイノリティへの差別的な思想に対して明確に距離を置いていた。実際に「そういう人間にはライブに来てほしくない」といった趣旨の強い言葉を残していることもある。
また1992年には、同性愛者の権利を守るチャリティイベントにも参加している。
ただし、カートの思想は一貫した理論というよりも、そのときどきの怒りや違和感に強く反応する形で表現されていた印象が強い。
完成された思想家というより、矛盾や葛藤を抱えながら表現していたアーティストだったと言える。
Nirvanaの音楽やイメージが大衆化し、Tシャツとして街に溢れ、アニメや広告などさまざまな文脈に取り込まれていく中で、必ず出てくる問いがある。
「カートはこれを喜ぶのか?」
しかしこの問いに明確な答えを出すことはできない。
彼は商業化そのものを単純に否定していたわけではない一方で、その“され方”には強い違和感を抱いていたことが知られている。
『Smells Like Teen Spirit』の爆発的ヒットの後も、その消費のされ方やイメージの固定化に対して葛藤を抱えていた。
つまりカートのスタンスは「賛成/反対」で単純に割り切れるものではなく、常に揺れていた。
そして何より、彼はもう生きていない。
そのため、「カートならどう思うか」を誰かが断定することは、本質的には不可能だ。
ファンの中に生まれる防衛反応
一方で、ファンの側にも複雑な感情がある。
たとえば街でNirvanaのTシャツを着ている人を見かけたとき、「本当に好きなのか、それとも流行で着ているだけなのか」と感じてしまうことがある。
それは排他的な気持ちというよりも、自分が大切にしているものが軽く扱われているように感じることへの防衛反応に近い。
音楽そのものだけではなく、その背景や文脈まで含めて好きだった場合、それが抜け落ちて見えると、どこか寂しさや違和感が残る。
ただ同時に、それが「入り口」であることも事実だ。
たとえ軽いきっかけであっても、そこから音楽に深く入っていく人もいる。
その意味で、この感情は常に矛盾を抱えている。
それでも残る小さな違和感
例えば、ある人が有名なバンドのTシャツを着ていながら、その音楽についてほとんど知らないと分かったとき。
そこに生まれるのは、怒りというよりも説明しづらい違和感だ。
それは音楽そのものというより、「共有されていると思っていた文脈が抜け落ちている感覚」に近い。
ただしそれは相手の問題というより、自分の中にある期待や前提が揺らぐ瞬間でもある。
この議論に結論はない
結局のところ、
カート思想をどう解釈するかも、
Nirvanaの消費のされ方をどう受け取るかも、
どこまでが“正しい理解”なのかも、
一つの答えに収束することはない。
むしろ、この揺れそのものがNirvanaという存在が今も生き続けている理由なのかもしれない。
正しさではなく、解釈の揺れが残り続けている。
その意味でこの議論は、終わるものではなく、続いていくものなのだと思う。
そんな中
デイヴの「カートもこの作品が好きだと思うよ。」についても
それはデイヴでも分からんだろ!と。
ところでクリスはどう思う?